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 大山倍達総裁が亡くなる半年程前、十数年ぶりにお会いした時の写真です。ご挨拶をするため、おずおずと総裁に近付いて行った私に「おおー。鈴木君!」と声を掛けて下さいました。私を覚えていて下さって、懐かしそうな顔をされていた事が、うれしく思い出されます。

 今回は、総裁に関する思い出を中心に、断片的書いてみようと思います。
私は、池袋の極真会館が竣工して少し後、1965(昭和40)年に入門をしたのですが、そのころの主な指導者は、芦原英幸氏や中村忠氏でした。総裁は道場 生の間を縫って歩き、個々に手直しをするといった指導をしておられました。たまに「いい突きをしてるねー!」と褒めて頂けると、天にも上る気持ちで、ます ます空手に夢中になっていきました。
 私が、盧山初雄氏(私が属する極真館館長)に出会ったのもこの頃で、当時の盧山氏は茶帯。総裁の指示で盧山氏と小倉氏が組手をされるのを見て「すごく強い人だなあ」と、感心していました。白帯の私にいろいろな事を教えて下さる、良き先輩でした。

 総裁が、指導の際口癖のようによくおっしゃっていた言葉をご紹介してみましょう。

「親孝行をしないと、強くならないよ」

「勉強しないと、強くならないよ。空手馬鹿では駄目だ」

「1日50ページ、本を読みなさい」

「1日でも先に入門すれば先輩だが、後輩であっても年上の人をぞんざいにしてはいけない。会館を出たら、人生の先輩なのだから立てなさい」

「牛を川へ連れて行くのは人間だが、水を飲む飲まないは牛の自由なのだよ。(強くなる方法は教えるが、自分のものに出来るか否かは、自分の努力次第である)」

総裁のこれらの言葉により、私は独学で“社会保険労務士”の資格を取得し、読書を好む人間になることができました。
総裁の数多くの著作に書かれた「言葉」とはまた一味違った、シンプルで力強い「言葉」であったと、今にして思うのです。

 また、総裁を初め先輩達なども誰一人、身体にハンデを持つ私に対し、ハンデの事は一切口にせず、また手加減をする事無く接して下さいました。「1人前に 扱ってくれる=差別が無い」という喜びが、五体満足な人でも途中で挫折する事が多かった当時の稽古を私に耐え抜かせてくれたのだと思います。
「極真会館」無しには、「大山倍達」無しには、今の私はありませんでした。きっと、己のハンデに負け、自暴自棄な人生を送っていたのではないでしょうか。きっと、そうでしょう。

 最後になりましたが、総裁夫人、大山智弥子氏についてもご恩を感じています。私は当時、父をとうに亡くし、母と高校生の弟を抱えた、就職したての会社員 で、1度月謝を滞納してしまった時、「鈴木さん、払える時でいいのよ」と、待って下さった事がありました。後に、「カラテマガジン」に私の手記「成せばなる」が連載された時は「こんなことしかできないけれど」とおっしゃって、お祝いに真新しい稽古着をプレゼントして下さいました。また、昨年私の本が出版された時は、出版の許可を頂くため、夫人に面会した著者の大田氏によると、私の本が出版される事をとても喜んで下さり、「鈴木さんにお会いしたいですね」 と、おっしゃってくださったそうです。
 なかなかお目に掛かる事はかないませんが、
この場を借りて御礼申し上げます。

 さて、9年前の4月26日、総裁は亡くなられました。
この写真を撮った時のお元気そうな様子から、僅か半年後の出来事でした。私は、夕方の駅の売店に置かれたスポーツ新聞の見出しで、その事実を知りました。「巨星墜つ」という見出しであったと記憶しています。帰宅してから、声を上げて泣きました。
「巨星墜つ」・・・死してこの言葉で送られる人は、稀だと思います。
不世出の空手家、稀有な武道家、大山倍達の死・・・・私の青春時代を全て賭けたと断言しても過言ではない、師の死。
師の教えを少しでも多くの人に伝えるべく、数年後に自分の道場を開設することになりました。

 あと数日で、総裁の9回目の命日です。総裁の名に恥じぬよう後輩の指導に当たることを、肝に命じる所存です。 押忍


平成15年4月21日 極真館吉川支部



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