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 話が相前後するが、大会に初出場した昭和四十七年の正月、私は本部恒例の冬季合宿に参加し、あやうく命を落としかけた思い出がある。合宿地は例年通り奥秩父三峰山で、私の冬季合宿参加はこの年が最初であった。一月三日から五日にかけての二泊三日と、夏の合宿に比べて期間は短いのだが、酷寒の山中での猛稽古は夏に倍する苦しさであった。

 三峰山頂の三峰神社に宿泊し、朝は五時半に起床するのであるが、「起床!」の合図があっても、布団から出るのはナカナカ勇気がいる。宿舎内で準備運動を済ませて外へ集合するのだが、なにぶんにも氷点下五度の山中に稽古着一枚の素足である。カチカチに凍結した雪の上を歩く辛さは、ちょっと筆舌に尽くしがたい。眠気など、いっぺんに吹きとんでしまう。

 そして、館長以下神殿の床に正坐して神主ののりとを聞くのであるが、これがまた大変な苦行なのである。神殿の扉は開けっぱなしなので、吹きっさらしの中に道着一枚で坐っているようなものだ。そこへもってきて、神主ののりとがナント延々二十分も続くのである。正坐しているので足はたちまち痺れてくるし、身体は凍えて感覚がなくなってしまう。寒さには自信があった私だが、この時ばかりは、合宿に参加したことを悔やむ気持になったほどだ。

 ――さて、この冬季合宿では、二日目の午後に、四十キロマラソンを行なうのが恒例となっている。山頂からふもとのダムを往復する、山あり谷ありの難コースである。

 この二日目の午前中、私は後輩の岸と木内の三人でストーブを囲み、雑談しながら自由時間をすごしていた。そのとき、岸が、

「はだしでマラソンを完走したものは、いままでに二、三人しかいないということだから、ひとつ、われわれも裸足で走ってみよう」

 といいだした。私も木内も、挑戦してみようということになった。もともと私は長距離が苦手であるが、自分の肉体がどれくらい頑強になっているかを試す好い機会だと思ったのである。

 私たち三人が裸足でスタートラインに並んだのをご覧になって、

「きみたち、大丈夫か――?」

 と、館長がお声をかけて下さった。われわれは意気込んで、

「押忍、大丈夫です!」

 と答え、大山泰彦先輩の号令で全員いっせいにスタートした。往路の二十キロは下り坂で呼吸は比較的らくだが、午後になっても気温は零度をこえず、急峻な山道は凍りついたままである、ものの五百メートルも行くと子砂利が足裏に食い込みはじめ、冷たさのため次第に足の感覚がなくなってくる。どうにか往路を走り通してダムに着き、足の裏を見たら、肉の柔らかいところに子砂利がおびただしくめり込んでいた。岸も木内も同様で、われわれは口にこそ出さないが、裸足で走ったことを後悔しはじめていた。

 復路は登りである。岸と木内はマラソンに強いほうなのでどんどん登っていくが、平地でも長距離は苦手の私にとっては、まさに地獄の苦しみであった。

「浩平、頑張れ、頑張れ!」

 と、自分を励ましながら走りつづけたが、山の中腹あたりまで来てついにダウン――

 足の痛さと冷たさと、そして骨のズイまで凍りつくような寒気のために、頭がボンヤリかすんでくる。足をひきずりながら歩いていると、うしろから泰彦先輩と佐藤勝昭が追いついてきた。私たちは三人で歩いて帰ることにした。途中からコースをはずれ、近道を見つけながら歩いた。

 泰彦先輩は長靴、佐藤は運動靴を履いており、裸足の私はともすれば遅れがちとなる。そろそろ日も昏れかけて、冷え込みが一段と強まり、歯をくいしばっていても胴震いが止まらなかった。

 そのうち、ふと、断続的に意識が遠のくようになった。よく山の遭難の話で、雪の中で睡魔におそわれ、眠り込んでしまって凍え死ぬということを聞くが、まさにそういう状態であった。苦痛を通りこして、だんだん気持ちよくなってきた。のろのろ歩きながら、半分眠っていた――

 ハッと気がつくと、泰彦先輩が私の頬に平手打ちをあびせながら、

「眠るな、頑張れ!」

 と大声で叫んでいた。
 それからは三人で歌をうたいながら歩きつづけ、やっとの思いで宿舎に帰り着いた。館長はじめ先着した岸や木内たちが、心配顔で出迎えてくれた。

 私と岸と木内の三人は、一刻も早く足をあたためようと台所へとび込み、足に熱湯をかけた。

 これがいけなかった。こういう場合は、急激にあたためたりしないで、手で一時間ぐらいマッサージするのだそうである。われわれはさらに、そのすぐあとに風呂へ入り、かてて加えてストーブであたためるよいう愚を重ねてしまったのである。

 風呂から出てストーブにあたっていると、足がだんだん熱を帯びてきて、痺れるように痛みだした。夕食をとりに食堂へ行こうとしたが、満足に歩くことができず、壁をつたって歩かなければならなかった。その晩は痛みがひどくて眠られず、翌日も稽古どころではなかった。杖をつき、後輩の肩をかりてやっとの思いで山を下り、家に帰ったが、次の日から十日間寝込んでしまった。ひどい凍傷にかかっていたのである。

 あとから聞くと、岸も木内も同じ状態だったそうである。私は母と暮らしていたから食事の心配などしなくてよかったが、アパートに一人住まいの彼らは食事にも出られず、四、五日は水ばかり飲んで寝ていたそうだ。そして、やはり十日間ほど会社を休んだということであった。

 いま考えると、ずいぶん無茶をしたものだと思う。なつかしくも背筋の寒くなる思い出である。

 ――ここで、後輩の岸信行のことに少し触れてみたい。岸は山形県新庄市の産で、上京して職を得ていた。私は黒帯になってまもなく彼を知り、後輩の中でもっとも親しく付き合うようになった。私は彼を弟のように思い、彼も私をしたってくれた。

 稽古のあとなど、よく二人で食事に行ったり飲みに行ったりしたが、そんなとき、彼はいつも口ぐせのように、

「稽古や仕事で苦しくなったときは、あの鈴木先輩が普通の人以上にやっているのだから、自分はもっと頑張らなければだめだ――」

 そう自分にいいきかせている、といっていた。

「好きな子がいるんだよ」

 と私が冗談まじりに打ち明けたときなど、

「自分が橋渡しをしますから、ゼヒ紹介してください」

 と真剣な顔で、仲介の労をとろうといってきかなかった。

 酒が非常につよく、酔うと必ず十八番の新庄節が出た。少々ケンカッパヤイのが玉にキズであったが、しかし岸という青年は、いまどき得がたい、とても純朴でさわやかな好青年である。現在アメリカでインストラクターとして活躍中だが、帰国したらゼヒ会って、ビールでも飲みながら一夜語り明かしたいと思ってい る――
 
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極真本部地下道場で後輩の岸信行氏と



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