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 昭和四十一年秋、私は二級に昇級を許されたが、その当時の私には、何か技を決めて相手をキレイに倒すということなど、思いもよらなかった。

「茶帯になったのだから、下の者には絶対負けられない――」

 という気魄で、ただガムシャラに相手にぶつかっていくだけだった。下の者だから手を抜いてやるとか、軽くあしらうというような芸当は、とてもできなかった。

 頭のなかには、

「五体満足の奴に負けてたまるか!」
 
 という気持しかなかった。

 そういう強い気持で稽古にのぞんでいても、やはり昔からのコンプレックスが抜けず、体格の大きな者がいると平静ではいられなくなる。そういう時は、

「浩平、弱気になるナ!」

 と、自分自身を叱咤するほかなかった。ここで弱気になったら黒帯など取れるものか、と勇を鼓舞して立ち向かっていった――

 私は身長155センチ体重57.8kgでこの体格は今も昔もかわっていない。したがって、自分より小さな者を相手にした経験はほとんど皆無である。そういう自分の不利な肉体条件を思うにつけ、もっと力をつけなければ、と痛感した。大山館長も、

「小さい者は小さいなりに力をつけなければだめだ」
 
 と、常日頃おっしゃっておられる。そこで私はバーベルを本格的に始めることにしたわけだが、茶帯当時はベンチプレスで五十キロをあげるのがやっとだった。

 こんなことではだめだと思い、五十キロのバーベルを毎日百回ずつあげることを日課にした。最初のうちは、十回を一セットにして三十回あげるのが精一杯で、自分の非力さをつくづく情けなく思ったこともあった。しかしクサらずに続けているうち次第に力がついてきて、一年後には百回が可能となり、そして今では、調子のいい時なら九十キロを三、四回あげられるまでになった。
 また、そのころの私は回し蹴りが不得手で、それを克服するために一つの練習方法を考案した。ボール紙を人間の顔のかたちに切り抜き、ヒモで天井から一メートル八十くらいの高さに吊るし、それを毎日蹴る練習をした。ただ蹴るだけでなく、自分のライバルを一発で倒すつもりで蹴った。当時はアパートの二階に住んでいたので、階下に物音のしないよう気をつかいながらの練習だったが、そのかいあって、現在の私は一メートル八十五くらいの人間の顔面を蹴ることができる。

 話はかわるが、私は極真会館に入門以来、練習日記というものを欠かさずにつけている。これは大山館長のおことばに従って始めたもので、その日の練習内容や先輩方に注意されたことを、毎日寝る前に必ずつけるようにしていた。組手で相手の突きや蹴りをもらったときは、自分のどこがいけなかったのか、あのときはどういう攻撃をすればよかったか、というような反省メモを克明につけ、一度不覚をとった相手には、次の機会に必ず借りを返すよう心がけた。

 その当時、私のひそかな目標が藤平先輩であった。大沢昇のリングネームで永くキックボクシングの日本バンタム級チャンピオンだった人である。

 この藤平先輩は私と似たような背かっこうで小柄な人だったが、その練習量たるや今でも極真本部の語り草になっている。館長もよく話しておられたが、一日ナント十二時間も練習をしたそうである。親指一本で逆立ち歩行し、その正拳は大きな相手を一撃で倒す壮絶な破壊力を秘めていた。

「からだが小さくても、練習次第ではあんなにつよくなれるんだ」

 この藤平先輩の存在が、小柄軽量の私にとってどれほど大きな支えとなり、励みとなったことか。この先輩にはまた、稽古の実際面でもいろいろと教えていただいた。組手の時間にはきまって相手をさせられ、きびしい手ほどきを受けた。一度など、まともに突きを貰って、肋骨にヒビが入ったこともあった――

 まったく、そのころの私の生活は空手を中心に動いていた。朝八時に家を出て、九時から五時まで会社で働き、退社後はまっすぐ道場へ行き、十時に家に帰るという生活だった。したがって、遊んでいる暇などほとんどなかった。

 こうして厳しい練習に明け暮れ、忘れもしない昭和四十二年の二月に、私は初の昇段審査を受けることになったのである。

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