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 難航に難航をかさねた私の就職問題も、卒業式の数日前になって、ようやく落着した。東京都社会保険診療報酬支払基金というイカメシイ名前の役所で、とにもかくにも私は社会人としての第一歩を踏み出すことになったのである。

 そして、ここで貰った最初の給料をふところに、私は憧れの極真会館本部道場を訪れたわけだが、ではこの辺で、私が極真空手の存在を知るに至ったいきさつを、簡単に述べておくとしよう――

 例の町会事務所二階での空手稽古は、指導にあたっていた藤本さんの都合で約半年で中止となったが、その後も私は自分なりの稽古をつづけていた。が、なんといっても未熟なものだから、何かしっかりした入門書のようなものが欲しくて書店へ足を運んだ。そして買い求めた石黒敬七著「空手入門」という本のなかに、大山倍達館長の牛殺しの記事が載っていたのである。それを読んで、世の中にはこんなに強い人がいるのか、と思った。働いて給料が貰えるようになったら、ゼヒこの偉大な先生の許に入門しようと心に決めた。

 そして、あれは昭和三十九年の十一月頃だったか、スポーツ新聞紙上で大山館長が池袋に新道場を建設したという記事を読み、矢も楯もたまらなくなって手紙を書いた。――自分は空手之道を修行したいと思っている者ですが、いまは経済的余裕がないので、働くようになったらゼヒ稽古に行きたいと思います。ついては、稽古内容をお知らせ下さい――というような文面だったと思うが、折返し懇切なご返事をいただき、大感激した記憶がある。

 私が高校を卒えて就職したのは昭和四十年四月で、当時の初任給は一万四千円だった。そして四月十五日に最初の給料を日割り計算で貰い、その六千円也を握りしめて極真会館をたずね、さっそく入門手続をとったのである。六千円のうち四千五百円を払ってしまったので、私の給料をあてにしていた母は少なからずガッカリした様子だったが、口に出しては何もいわなかった。

 昭和四十年四月十五日――

 この日は、私にとって終生忘れることのできない記念すべき日である。念願かなって極真会館の門下生となった私は、それから一日おきに稽古にかよった。

 その当時は、中村先輩、大山茂先輩、加藤先輩、郷田先輩、落合先輩、小沢先輩、芦原先輩などソウソウたる顔ぶれがそろっており、入門初日の私に基本を教えてくれたのが芦原先輩であった。廬山先輩が茶帯で、添野先輩が緑帯だった。同期の仲間には、山崎、及川、世界チャンピオン佐藤勝昭の兄さんなどがいた。佐藤の兄さんとは、しばしば組手もやらされたし、また、よく稽古のあとビールを飲みにつれていってもらった。

 当時の本部稽古は、随分ときびしいものだった。稽古時間は夕方六時半から九時半までで、基本だけでもミッチリ四十五分位シゴかれた。家に帰ると、ぐったりして口もきけないほどだった。

 極真会館に入門して一番うれしかったのは、からだのわるい私を差別しないで、皆と同じ稽古をさせてくれたことだった。これは私が望んでいたことであり、歯をくいしばって稽古の苦しさに耐えた。

 入門して二回目の稽古の時、組手の時間に大山茂先輩が、

「ほかに組手をやりたい者はいないか――」

 といわれた時、勢いよくとび出していったことがある。怖いもの知らずというか、大山先輩が受けてくれたのでケガをしないで済んだが、いま考えると自分の無鉄砲さに冷汗の出る思いである。

 そのころ私は前蹴りしかできなかったが、極真会館の組手は回し蹴りが圧倒的に多かった。私は腰の病気をしたため股関節が人より硬かったので、まず股関節を伸ばす運動を集中的にやったところ、足のすじがすっかり伸びきってしまって歩けなくなったことがある。

 四十年当時は黒帯の先輩方が多くて、組手の時間になると、われわれはみな下を向いていた。組手のとき最も怖かったのは、中村先輩と芦原先輩であった。

 中村先輩は、最初の一分間は受けてくれるので、これで終わりかと思ってホッとすると、必ず、

「もう一回――」

 と声がかかり、あとの一分間はまったく受けてくれず、それこそサンドバッグのように徹底的に鍛えられた。

 いっぽう、芦原先輩の方にも恐怖(!)の想い出がある。一度、偶然に私の左回し蹴りが芦原先輩の顔面に入ってしまったことがあり、そのときは道場中を追っかけ回されたものである。

 ――こうして入門後半年たって、私は秋の審査を受けることになった。申込用紙に現在の自分の級位を書き込む欄があるが、私はそれを、自分の欲しい級位を書くものかと勘違いして、四級と記入してしまった。そうしたら、あとで黒崎先輩が道場へ上がってこられ、
「鈴木浩平という四級はだれだ――」

 と顔を見にこられたのにはキモがつぶれた。

 この失敗のおかげかどうか、ともかく私は、その四十年十月の審査会で緑帯を許された。そのころの緑帯は非常に水準が高く、白帯との組手は黒帯にかわって緑帯がやっていた。

 緑帯になると組手の稽古は一段と厳しさを増した。口を大きく切ったり、お岩みたいな顔になったり、足を蹴られ家へ帰ってもまともに坐れないこともあった。

「お金を払ってケガをしに行くなんて、物好きだね」

 と、母にイヤミをいわれたこともある。また、道場へ行かない日は、親類の家の庭で、柳の木に毛布を巻きつけ、それを蹴って練習した。
「小さい者が大きい者とやるには、二倍練習して同じ、三倍やらなければ勝てない」

 という大山館長のお言葉を肝に銘じて、未熟ながら精いっぱい猛稽古に励んだ。道場で四時から九時半までブッ通しで稽古をし、家に帰って坐ったら腰が抜けて立てなかったこともある。私のからだは普通の人より倍疲れやすく、また疲労の抜けにくい体質だったので、まさに血のにじむような思いで克己心を振るい立たせなければならなかった。きたない話だが、再々のことで血の小便にも驚かなくなったほどだ――

 緑帯になったあくる年、007で人気絶頂のショーン・コネリーがロケで来日し、いちにち、見学のため極真会館を訪問したことがあった。芦原先輩が回し蹴りで板を割ったり、藤平先輩が自然石を割ったり演武を披露する中にまじって、私も板三枚を前蹴りで割った。そして組手にも出て、無我夢中で相手を追っかけ ていったことを今でも覚えている。

 この演武会のあと、私のことが一番印象に残った、とショーン・コネリーは語ったそうである。

「ああいう身体であれだけやれるとはたいしたものだ、私もこれからは考え方を変えなければいけない――」

 と館長に感想を述べたということを、館長ご自身の口からお聞きした。そして、その後館長がヨーロッパへ行かれてショーン・コネリーと再会された時、

「あのひとは元気か?」

 と私の消息をたずねたそうだが、私としては望外のことというしかない――
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昭和41年9月、“007”ことショーン・コネリー氏の来館を迎えての演武会で、
先輩たちにまじって活躍する筆者----上は前蹴りによる板割りである


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