昭和四十八年十月――
私は第三回大会に引き続き、この年の全日本オープントーナメントにも出場することにした。
私は初出場の前大会で、幸運にも二回戦を勝ち抜くことができたが、今度の大会で不様な負け方をすると、あれはまぐれだったかともいわれかねないので、なんとしてでも前回と同じ成績を残すべく必死に練習をつんだ。
そして大会の三日前になって対戦表が発表されたが、私は自分の第一回戦の対戦相手の名前を知って、すくなからず驚かされた。
なんとその相手というのは、この年の鏡開きに共に極真特別敢闘賞を受けた、あの他流派の伊東武美君だったのである。
この伊東君は、前にもちょっと触れたが、私と同じ身体障害者だった。左腕が、ないのである。そのハンディキャップにめげず他流派で空手修行し、たしか三段を持っていたと思う。隻腕ながら身長があり、ガッチリした体格をしていた。前回の大会で彼は私同様三回戦まで進み、その健闘が認められての鏡開き表彰であったのだ。
この伊東君が一回戦の相手と知って、私はいやな予感がした。同じ身障者同士でたたかうのが、まずいやだった。前の大会では自分のことで精一杯で、あまりよく彼の試合ぶりに注目していなかったのだが、前蹴りが非常に強かったことと、ガムシャラに前へ出て行く戦いぶりが印象に残っている。
「あの調子で前に出てこられたら、向こうはからだがあることだし、
ひょっとしたら負けるかもしれない――」
と私は思った。彼がどういう事情で片腕を失ったかは知る由もないが、同じ身障者としては私には彼の今日までの苦労のほどがわかりすぎるほどわかるので、できれば闘いたくない相手であった。
しかし勝負の世界とは、そういう個人的感情の介入を許さぬ厳しい世界なのである。これはよく大山館長のいわれることだが、
「イザたたかいの場に臨んだら、あらゆる私情を振りすてよ。強い方が勝つ――それが勝負の世界だ」
私はこの館長のおことばを思い出し、自分の気持にふんぎりをつけた。ひたすら勝つことだけに精神を集中し、“打倒!伊東武美”の作戦を練った――
勝負の世界においては、相手の弱点をみつけたら、そこを徹底的に攻撃するのが定石となっている。伊東君には左腕がない。左腕がないということは、相手の右の攻撃は受けられないということである。そこで私は、右の回し蹴りを主武器として、彼の左側を徹底的に攻撃する作戦をたてた。
十月二十二日の大会当日――
開会式セレモニーで出場選手全員がマット上に勢揃いした時、私のすぐ隣に伊東君が並んでいた。
「おたがい身障者同士、精一杯たたかおう――」
私はそう、心のなかで語りかけたものであった。 |
――昭和四十五年にスタートした国際空手道連盟・極真会館主催のこの全日本オープントーナメント大会は、年々空手界の人気を独占しつづけ、第四回目を迎えたこの日の会場も超満員の盛況ぶりであった。拍手と歓声のうちに組手一回戦の開始となり、いよいよ私の番がめぐってきた。
マット上で対い合った時、伊東選手の両眼が異様に光った。燃えたぎる闘志を隠そうともしない、不敵きわまる目の色だった。それを見て、私は、彼が想像していたとおりの手強い相手であることを納得した。
「ヨーシ、負けるものか!」
と、私もあらん限りの闘志をふるい立たせた。
審判の「始め!」の合図で、私は一気に相手のふところへ飛び込んで行った。彼の強烈な前蹴りを、まともに喰ったらフッとばされると思ったからだ。前蹴りさえ封じてしまえば、もう怖いものはなかった。隻腕の彼の突きは、恐るるに足らなかった。彼が前蹴りにくる時は、私はもうそのふところ深く入り込んでいた。そして作戦通り、右の回し蹴りで相手の左側を攻めて攻め抜いた。
間断なく攻撃しながら、私は自分がリズムに乗っているのを感じていた。試合半ばにして勝利を確信した。そして終了間際、回し蹴りから突きを相手の胸に決めた時、彼は退がりながら一瞬かなしげに表情をゆがませた――
そのときの何ともいえない顔が、今でも私の目の中に焼きついている。彼は私とのこの試合を最後に大会のマットから遠ざかっているが、いずれその健在ぶり をどこからか伝え聞くことになるであろう。私はこの隻腕の空手家のことを、これからの人生の良きライバルとして、常日頃心に思いうかべているのである。
伊東選手を倒して決めにくい筆者
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