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 本誌編集部から、空手修行の体験記録を書くようにとの依頼を受けた時、正直なところ、私は一瞬考えこんでしまった。長い文章を書くのは、小学生の時分から大の苦手であった。

 それでも、この文章を書くことによって、これまでの空手人生に区切りをつけ、また新たな気持ちで修行に打ち込もうと思い、非才の身をかえりみず筆をとることにした次第である――

 私が空手を始めて早いもので丸十一年になるが、どうして数ある武道・スポーツの中で最も苛烈な修行が必要とされる空手を学ぶ気になったかを書くには、話をいったん出生当時に戻さなければならない。

 私は昭和二十一年東京に生まれ、満二歳頃まではふつうの男の子としてスクスク成長した。そのころのことは全然記憶にないので、母から聞いた話にたよるほ かないが、二歳の誕生日を過ぎた頃、ある日突然、からだを海老のように折り曲げて歩くようになった。奇異におもった両親に手を引かれ、整形外科医の門をくぐったところ、腰椎カリエスという診断であった。大人だったら痛みが激しく、とてもガマンできる状態ではなかったそうだ。二歳の幼児だったので、ここが痛いとかあそこが痛いとか、はっきりした意思表示ができなかったのであろうが、泣いたり元気がなくなるといったこともなかったそうだ。

 カリエスの診断を受けてからというもの、父は毎日のように私を連れて、片道二時間もかかる北多摩郡の専門病院へかよった。このカリエスという病気は、大人なら早期発見が可能で、コルセットをして安静にしていれば完治するのだが、まだ物心もつかない幼児のことである、私はコルセットをするのを大変いやがり、両親を困らせたそうである。それが原因で腰の骨が腐り、変形してしまい、それ以来、身体障害者という烙印が一生私についてまわることになるのだ――

 両親の献身的な看護がみのり、どうにかこの難病を克服した私であったが、からだの骨がみにくく変形し、普通人よりよほど発育がおくれた。小学生になり、ものごとの判断力がつきはじめると、自分のからだが他の人と違うということを、はっきりと自覚するようになった。それでも、生来の陽気な性格がさいわいしてか、自分のからだについて深く気にやむということはなかった。

 小学校に正式入学する前に、学校の雰囲気に馴れさせるため、一日入学式というのがある。その式場で、先生に、

「前に出て歌うものはないか」

 といわれたが、だれも恥ずかしがって出ていかない。そのとき私が手をあげて前へ出ていき、当時はやっていたラジオ番組の主題歌である「三つの歌」を大声でうたい、先生にほめられた記憶がある。

 そのころから、イザとなると度胸がすわってしまう性格があらわれていたようだ。
 小学一、二年の頃は、どうにも手のつけられないキカン坊だった。授業中に机をひっくり返したり、女の子をいじめたりして、担任の先生をずいぶんてこずらせたものだ。一度など先生が家にやって来て苦情をいったものだから、私は父からこっぴどく叱られた。

 怒るとこわい父ではあったが、私のことを深く心にかけていてくれ、私がケンカをして負かされて帰ってくると、丸太を持っていじめた奴を追いかけて行ったりした。おとなげないといえばおとなげないが、それというのも、殊のほか私のことを不憫に思っていたためであろう。

 やがて小学校も上級になるにつれ、次第に自分のからだのことが気になりはじめた。一番いやなのは体操の時間だった。ふつうの体操は大体できるのだが、跳び箱とかマット運動の時は、ひとり抜けて見ていなければならなかった。みんなと同じにやりたくてもやれないくやしさは、今もって忘れられない。

 それともう一つ――

 夏になってプールに入る時、みんなにジロジロ見られるのがとてもいやだった。

 小学生時代のからだ恰好は、いまからは想像できないほど、みっともなかった。胴がみじかく、足だけ不釣合いに長く、胸の骨が少し前に出ていて、両腕が棒のように細かった。歩くときは、うしろへ少し反り返るような歩き方で、上級生の中に、私のその恰好をマネしてからかう者がいた。涙が出るほどくやしくても、むかっていけなかった。

 小学校四年になると、あれほどキカン坊だった私が、急におとなしくなってしまった。他人と自分は違うのだ、というコンプレックスが芽生えはじめた結果であったろうが、その反面、この時分から負けずぎらいの性格が強く表面に出てくるようになった。

 しかし、なんといっても、現在の私のものの考え方を決定づけたのは、父の教えであった――

 父は私が小学校二年のときに肺結核で倒れ、それ以来ずっと、病院で闘病生活を送っていた。そして月に一度の割で見舞いに行くたびに、かならず、

「一生懸命勉強しろ、勉強さえできれば他人は何もいわなくなるから、とにかく勉強しろ――」

 と、私にいいきかせた。

 父は学問がなかったために生涯苦労のし通しであったが、私にその二の舞をふませたくないという親心が、そういう言葉になったのであろう。そしてその父の教えが、どれだけ私のこれまでの人生の支えとなってくれたことか。

「――なんとしてでも高校へゆき、そして、からだを鍛えるために剣道をはじめることだ」

 と繰り返し励ましてくれた父であったが、その父も私が十三のときに他界した。死の直前まで、ハンディを背負って生きなければならぬ我が子の行末に心をのこしながら・・・・・・

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